院長 名古屋 孝夫
経歴
私立武蔵中学・高校 卒業 | |
平成4年 | 横浜市立大学医学部 卒業 |
平成4年 | 横浜市立大学病院 研修医 |
平成6年 | 横浜市立大学病院 耳鼻咽喉科 |
平成8年 | 神奈川県立こども医療センター 耳鼻咽喉科 |
平成10年 | 神奈川県立足柄上病院 耳鼻咽喉科 医長 |
平成12年 | 国立横浜病院 (現在・国立病院横浜医療センター) 耳鼻咽喉科 医長 |
平成15年 | 総合新川橋病院 耳鼻咽喉科 部長 |
平成18年 | なごや耳鼻咽喉科クリニック 院長 |
専門
- アレルギー、アレルギー性鼻炎レーザー治療
- 睡眠時無呼吸症候群
- 日本耳鼻咽喉科学会専門医
- 日本耳鼻咽喉科学会補聴器相談医
- 身体障害者福祉法代15条指定医
院長インタビュー!
Dr.'s File 街の頼れるドクターたち Vol.45 掲載
長津田駅南口を出てすぐに見える、長津田クリニックビル5Fのなごや耳鼻咽喉科。駅近辺を一望できる広い待合室、その窓から見える街並みや、ホームを行き交う電車やバスなどを眺めていると、しばし時が経つのも忘れてしまいそうなくらい、ほっと心が和んだ。
平成18年5月に開業したばかりのフレッシュな院内には、名古屋院長が今まで多くの経験を積んでたどり着いた、地域医療に対する熱い想いが詰め込まれているような気がする。
これまでの経緯から医療方針に至るまで、興味深い話は尽きなかった。
(取材日2007年2月5日)
音楽、ヨット、旅・・・様々な経験を通じて今の自分がいる。
小さな頃はどのようなお子さんだったんですか?
僕には小学生の子供がいるのですが、うちの子供と比べると、良い意味でも悪い意味でも、強い子供だったのかなと思いますね。学校が終われば町中でもたくさんの子供が遊んでいた時代で、まわりの子供を引っ張っていたような気がします。
ガキ大将的な部分もあったんだと思いますね。
その中で、お医者様になろうとしたのは?
叔父が、医師会長まで務めた九州の開業医だったんです。
人間的に魅力のある人で、子供ながらにお医者さんがカッコ良く見えたんですね。
一方、大学受験の頃は、建築家になりたいと思い始めた。
どちらも憧れていましたから、理系という括りの中で、医学部も理工学部も、同じスタンスで目指していたんです。最終的に両方受かって進路を選択する時に、公立大学で合格した医学部に入りました。
今でも、建築物に興味がありますよ。ここを開業するにあたっても、自分のイメージをお伝えする際に設計士さんを随分困らせたりしました(笑)。
デザインの格好良さだけではなく、人の流れや治療の流れを考えて、患者さんが使いやすいような造りにしたかったんですよね。
また、自分が高校時代に読んだ『マッシュ』という本にも影響を受けました。
朝鮮戦争の頃の軍医さんの話で、映画にもなっているからそっちの方が有名かもしれないけど、ドタバタ喜劇でね。その続編の中に出てくるお医者さんがとても魅力的な人たちで、地域治療に対してものすごい情熱を持って貢献するんです。
そういう話も、自分にとって刺激になりましたね。
学生時代に夢中になっていたことは?
中学の頃は陸上部に入ったんですが、高校からは音楽に夢中になりました。ロックンロールです(笑)。
レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなんかをコピーしていましたね。
僕は小さな頃にピアノを習っていたので、バンドではキーボードをやっていました。
今でも、私たち世代向けのロック雑誌を、胸をときめかせて買っていますよ(笑)。
大学時代は、ヨット部に在籍していたのですが、夏は毎週末合宿なんですよ。
当時は遊びたい盛りだったから、遊びも部活も中途半端になっていた自分にジレンマを感じて。
世の中はバブルでへなへなしているし、嫌になっちゃって、大学4年から5年に上がる時、1年間大学を休んで、世界一周貧乏放浪旅行をしたんですよ。西回り世界一周で、香港スタート成田ゴール。
バックパッカーってやつですね。
患者さんのそばで地域医療を目指したい。
世界一周とは、思い切りましたね!
様々な街の人に助けてもらいながら旅をしてきたんです。
同じくらいの世代の人、子供たち、いろんな国のいろんな世代の人たちに接しながら生活しました。
アジアにいる時間が長かったんですが、そこには至る所に困っている人や苦しんでいる人が当然のようにいた。病気なのに、病院に行けない人がたくさんいるのを見ました。
僕らが大学で習っている基礎的な医療的知識で「こうすればいいんじゃないの?」と思っても、改善できない環境の人たちがたくさんいた。
本来、ジレンマから逃げ出すように日本を飛び出してきたけど、自分が医者になろうという原点を気付かせてくれた意義のある旅になりました。
今となってその人たちにすぐにしてあげられることは少ないけど、見果てぬ夢としてね、自分がある程度人生経験を積んだら、助けてもらった人たちに対して、いちアジア人として何か僕にできることをしてあげたいと思っています。
実りのある旅だったんですね。
その1年があったから、今の自分があると思います。
技術や知識ということではなく、患者さんを見るということに対して。
ただね、バックパック旅行というのは、癖になっちゃうんですよ。
翌年の夏休みに、今度は3ヶ月かけてサハラ砂漠に旅に出たり、卒業旅行は、アマゾン川での川下りにも行ってしまいました(笑)。
耳鼻咽喉科を選択したのは?
学生時代に、アレルギーの勉強をしたかったんです。
アレルギーをできる科って、大きく分けると、内科、小児科、皮膚科、耳鼻咽喉科になるんですが、その中で手術をする科というのは耳鼻咽喉科だけだったんです。厳密に分ければもっと科はありますけどね。
僕は外科的な手術にも興味があったので、耳鼻咽喉科を選びました。開業してからは、日帰りのレーザー手術くらいしか行いませんが、勤務医時代にはよく手術をしていましたね。
扁桃腺、蓄膿症、中耳炎、大掛かりな手術なら、耳下腺腫瘍、舌癌などの手術も行いました。
開業までの経緯は?
これまで神奈川県立足柄上病院、国立横浜病院、川崎の総合新川橋病院で医長や部長を務めましたが、大きな組織の中にいると、自分が現場で働く上で、足かせになるような会議が増えてきちゃうんですよね。
それはそれで必要なものだし、責任を持って誰かがやらなければならないことなんだけど、自分は常に現場の医者でいたいし、患者さんの近くにいたいと思った。それで、地域に根付いた治療をしたくて、開業を決めました。
見て、話して、わかりやすい治療を。
医療方針や特徴を教えていただけますか
まず、分かりやすい診療をしたいと思っています。
難しい言葉は使わず、絵やグラフや模型などのビジュアルを使って、見て、話しながら、患者さんが納得できる説明を心がけています。
大人でも子供でも、コミュニケーションや信頼関係が大切ですよね。どんな小さな症状でも、お困りの時は、すぐに来てもらいたいと思います。
こちらでは、レーザー治療や睡眠時無呼吸など、最近耳にする言葉も掲げられていますね。
これからの医療として、患者さんに提供していかなければならない治療はどんどんやっていきたいと思っています。
例えば、睡眠時無呼吸は、鼻や喉の形体異常があるかどうかを確認するところから始めるのですが、実際に治療しているほとんどが、内科の先生なんですね。
ただ、内科では鼻や喉を専門的に診れないし手術ができない。
治療にはマウスピース、機械、手術などの選択肢があるのですが、内科だと選択肢が限られてしまいます。
この病気こそ、耳鼻科が診るべきなんですよ。
あとはね、自分的には子供も得意なんです。神奈川県立こども医療センターに勤めていた時の経験を活かして、耳鼻科的なことだけではなく、子供ならではの悩みに対するアドバイスもできるかなと思います。自分の子育ての経験からも、子供の様子が分かりますからね。
これから目指すことは何ですか?
地域医療の礎(いしずえ)になるために開業したというのは、大げさかもしれないけど、ここは専門知識を持つ同志が集まったクリニックビルですから、同じビルの仲間の先生達と手を取り合って、地域のみなさんの健康に貢献したいと思っています。
お休みの日の過ごし方は?
仕事柄、一日中座っていることが多いので、体を動かすことが好きですね。
マウンテンバイクに乗っていることが多いかな。夏はサーフィンにも行くし、冬はスキーやスノーボードに行っていますね。あとは音楽を聴いたりね。年代前後のロックを聴かせてくれるお店にも、たまに行きますよ。最近は、歴代の有名ミュージシャンが嬉しいことに来日していますから、ライブを観に行ったりもしていますね。