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レーザー治療、睡眠時無呼吸症候群

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女川中学生の冒険

2012/10

それは一本の電話から始まった。

あの日、大地が信じられないほど揺れた。宮城県から遠く離れた横浜の僕のクリニックも、海に浮かぶ小舟のように揺れた。そして君たちの街では悲しいことがたくさん起こった。

不安と混乱の日々を2週間ほど過ごしたあと、僕は中学高校の同級生である琉球大学法文学部准教授・宗前清貞先生に電話をした。東北大学で長く学んだ宗前先生の奥さんが、宮城県の漁師の娘さんであることを思い出したのだ。大丈夫、と宗前先生は言った。身内はみんな無事だけど家はかなり被害を受けて、今は住める状態ではないらしい。

僕らはじっくりと相談した。今何をすべきか、何をやらなければいけないか。そして被災地ボランティアに行くための準備を始めた。僕は日本医師会を通して手伝いのルートを探した。宗前先生は東北大学の人脈を通じてルートを探した。なかなかいい返事は返ってこなかった。

「行くしかないね」 2人の気持ちは同じだった。4月30日、レンタカーを借りた僕たちは仙台に向かって横浜を出発した。

仙台で宮城県医師会の先生方と合流した僕たちは、塩釜、東松島の巡回診療に同行した。大きな道の真ん中に漁船が流されてそのまま置いてある。家々が大なたを振ったように無くなっていた。その光景の衝撃は横浜にいてはわからないものだった。

次の日、僕たちは石巻に手伝いに行った。石巻のボランティアセンターで出会った何百人もの人たちに僕らはどれだけ勇気づけられただろう。心配してここまでやって来ているのは僕たちだけではなかった。そして知り合った数々の友達。その熱い思いを忘れることはない。

依頼を受けた僕達は河北の巨大避難所に行き、診療をさせていただいた。往診に訪れた地域では、悲劇の大川小学校も訪れた。

何かしなければ。僕たちは心から思った。

5日間で横浜に帰った僕は、日々の診療を行いながら被災地の子供達の進学を助ける奨学金の給付を思いついた。しかしそれを実現するのは難しかった。僕の計画は、石巻の高校生で看護学校への進学希望者への学資援助。しかし限られた資金の中で、給付する学生の選別が出来なかった。

新たな希望が生まれた。石巻への往復の中で、木村奈保子先生と知り合った。彼女は仙台で塾を開きながら、女川の中学生にボランティアで無料塾を行っていた。木村先生の協力で、女川の中学生に職業体験をしてもらおうと決めた。君たちのことだよ。

残念ながら今、東京や横浜でも将来の目標を持っている子供は少ない。大きな震災に見舞われた君たちが、将来の夢に対して遠慮していないか、それが気になっていた。教育者である宗前先生は、きちんとした目標があれば、しんどい勉強も頑張れるはずだと言う。僕もそう思う。

もちろん僕たちが中学2年生の頃どんな夢を持っていたかと聞かれると、とても心もとない。バブルと呼ばれる好景気の中でヘラヘラと過ごしていた。しかし、不思議な自信があった。お金はなかったが、思いっきり笑っていた。

今回のサマーキャンプで君たちと巡り合えたことは奇跡だと思う。大震災がなければ、宗前先生と電話しなければ、石巻の奨学金計画が上手くいけば、木村先生と知り合わなければ、君たちの前校長先生が賛成してくれなければ、教頭先生が協力してくれなければ、今回御賛同頂いた昭和大学横浜市北部病院、ロイヤルホールディングス、横浜市中央卸売市場の協力がなければ、そして何より君たちが参加しますと返事をくれなければ、君達と会うことはなかった。

この奇跡が君たちや僕たちのこれからの人生に何を起こすか、それは分からない。しかし、僕たちには何かを起こした。夢に見た景色が何色か、吹いている風がどんな香りか、ようやく分かったんだ。

あとは、その風景がどう変わっていくか、のんびりと眺めていこう。

朝の光が生まれ変わる街に命を吹き込む時、傍らに友達がいて、笑いながら歩いていければいいね。

頑張ってくれてありがとう。そしてこれからもよろしく。