リビア顛末記・6
2011/12リビア脱出をしようかという朝、トリポリのホテルの前で僕は北朝鮮のスパイに追い込まれました。
「おはよ、ございます!」
スパイは不気味な笑顔を見せながら近づいてきます。邪悪な笑顔というのは、まさにこういう顔をいうのでしょう。見え透いた邪念、下心を垂れ流しながら「車、借りられましたよ。スルトに行くんですか?」億面もなくに聞いてきます。「僕も一度スルトに行きたかったんで、一緒に行きますか?タダでいいですよ」
ハッサンは無表情で僕をうながします。
「今日はこの人の知り合いの所に行く約束があるんですよ」「え?どこに行くの?」「いや、この近所らしいんですが・・・もしよかったら今晩また食事しませんか?この前のレストランで」
もうウソで逃げるしかありません。スパイはしつこく「それじゃ私が送ってあげますよ」食らいついてきます。「いやいや、それはそれは。ハッサンが頼まれた買いものがあるんです。その後、今日の相手が迎えに来てくれるそうです」
スパイはじっとこっちを見ています。「分かりました。・・・このモロッコ人、あまり信用しない方がいいですよ。じゃあ8時にこの前の店で」
そのセリフはそのまんまお前の事じゃ! さすがはスパイ、抜け目なく攻撃してきます。
「グッジョブ、タカオ。さっきはあせったな」「いやー、あせった。もうスルトはいいや。チュニスに行こう!」「そうだろ。実際リビアは今かなりシリアスだぞ」
バスターミナルに行き、ハッサンはタクシーの運ちゃんを探します。そしてバスターミナルの横の露店街でチュニジア行きの客を探していると、「こんにちは!」恐怖の声が聞こえました。
振り返ると、奴がいました。その顔に笑いはなく「どこへ行くんですか!」鋭い言葉。「ちょっと・・」「ちょっと?何をウソを言っていますかあなたは!」周りに野次馬が集まってきます。まずい。
「タカオ!」天からの声。ハッサン、あんた素晴らしい!
「君か。君達はどこへ行くんだ?」「ノッチュア・ビジネス、ファッキン・コリアン!」周囲から笑い声。おいおい、悪い言葉を使うなよ!
悪魔の顔色が変わりました。しかし、何を思ったのか黙って去って行きます。その身の引き方の潔さに無気味さを感じながら、僕らはタクシーの運ちゃんを探します。
「ガ~リーッ!」 いた!ハッサンの雄叫びの何と力強いことか。ベンチに座り込んで世間話をしていた運ちゃんは、僕らの勢いにちょっと戸惑いながら、ハッサンと話し始めました。「ゴルブルゴニョゴニョ、へニャフニャ、オッケイ!」
ハッサンの顔が輝きます。「タカオ、チュニジアに行く2人が見つかった!チュニスに行けるぞ!」
ほっとした僕らは、屋台でペプシコーラで乾杯しました。(しかし、何でアメリカのジュースなんだろう・・・)「ジャパン、ジャパン、トヨタ、ニッサン、カワサキ、ホンダ!」運ちゃんは400ドルの大儲けに興奮状態。乗り合いの2人は不思議そうに僕を見ています。英語を話さないこの二人が、チュニジア人だと僕はハッサンの紹介で知りました。やはりモロッコ人、場の仕切りはお手の物です。
「ゴニョゴニョゴニョ。」ふとしたざわめきが左のほうで起きました。ざわめきが不器用にこちらへと向かって来ます。
え? またかよ! 機関銃を持った兵隊です。野次馬達が固唾を飲む中、僕に何か言ってきました。
その後ろにあのスパイの勝ち誇った笑顔を見つけた時、僕は顔の血液がサーっと背中に回る様な恐怖を感じました。
ハッサンが受け答えの後、こちらを向いて「タカオ、君のビザがフェイクだと言っている」厳しい顔です。このアフリカ人達は、多分トラブルの矛先が自分に向う様なら多分僕を生贄にするのだろう、と一瞬で判断し、脳を駆け巡るアドレナリンで解答を探しました。
あれだ! 僕は首から下げたパスポート入れの奥からビニールに包んだ最後の切り札を出しました。駐日リビア公使の名刺です!
水戸黄門の印籠の様なご威光があたりを平定し・・・ません。
兵隊は、それでも名刺を何度も見直している様ですが、理解が出来ない風に目が泳いでいます。ハッサンがいろいろ横から言いますが、うろたえるばかりです。
その時、「ジャッキー・ション!」聞き覚えのある声が。何と、前日サッカーをして遊んだ子供達のリーダーがやって来ました。そして驚いた事に兵隊と話しを始めました。
僕はこっそりハッサンに「この兵隊にいくら払えばいい?」と聞きました。「フィフティ」囁きが返って来ます。ゲっ50ドルもふんだくるのか、こいつは!
今思えば無謀な事をしたなあと反省しますが、僕はコソコソと15(笑)ドルを用意しました。そして兵隊に近づき、まずは大袈裟にハグをしてこっそり15ドルを握らせ、まわりの野次馬達に日本語で「皆さん、こんにちは!私は日本人です!それでは皆んな見てね、カラテ!」とか何とか叫びながら、空手の演舞の真似事を始めました。
このインチキパフォーマンスが外国では結構受けるのを知っていたとはいえ、こっちのビビリに気がつかれなかったのか、ちょっと受けました。すかさずスパイの所に行き、「いやー、貴方に会えて本当によかった。僕らはこれからチュニスに行くのだけれど、またトリポリに戻って来ます。そしたら絶対にまた会いましょう」とまくし立てます。
最後にサッカー少年に「ありがとう、お前は本物だ!今度は日本に遊びに来いよ!」と(日本語で)話しかけ(英語で話したって通じないのですから)、涙のお別れです。
ハッサン達は・・・要領よく運ちゃんを促し、タクシーは出発の準備が出来ていました。OK ! 早くずらかれ!
タクシーは砂漠の中の一本道をひた走りました。
今文章にして書いてみると、トリポリ脱出の場面ではだいたいあんな事が行われました。全くなぜ脱出できたのか不思議です。映画の脚本家なら、もっと面白く、又はスリリングにあの場面を書くでしょう。
運命というのは不思議です。
1970年代から80年にかけての、北朝鮮による日本人拉致事件。今にして思うと、時代がもう少し前だったらかなりの確率で僕も拉致被害者の仲間入りをしていたでしょう。拉致問題がテレビを賑わしていた頃、僕は自分の危機回避能力を自画自讃していましたが、それがどんなに薄い線の上を歩いていたか。冷汗を感じるとともに、運命のドアの開き具合に何か大きな意思の力を感じます。
国境検問所はビックリする程あっさり通過しました。日本の赤いパスポートに反応が少ないのは安心半分、ちょっと寂しい気もします。
チュニジアに入って車は北に向かいました。車の窓からの光景を今でも覚えています。
西の地平線には山脈があり、そこに夕日が傾いていきます。大陸を焦がす獰猛な太陽が、信じられない美しさを見せる日暮れ。その地平線まで広がる、正確に植林されたオリーブ畑の樹々。遙か彼方まで幾何学的に一直線に連なる樹々を、時速100kmで走る車の窓から何十分も見ていると、この大地に生きる人たちの無限の可能性を感じずにはいられません。
チュニジアの首都チュニスで、頼れる相棒・ハッサンと硬い握手の後、別れました。こうした旅行の時には、短期間に深い人間関係が築かれるものですが、約束した再会が果たせないことも多い。「一期一会」という言葉には永遠の真理があります。
魔都・トリポリを命からがら脱出してたどり着いたチュニスでは、普通に市バスに乗っていたらデモに遭遇したらしく催涙ガス弾を打ち込まれました。まったく世の中で絶対に安全な場所はありません。
そんな僕にも新しい相棒ができます。彼の名はメクネス。旅の途中、メクネスという町の市場で子供達にイジメられていたカメレオンです。浦島太郎の亀の様にお礼に龍宮城に連れて行ってくれませんでしたが、彼はとてもおとなしく、手乗りカメレオンとして僕の左手首にしがみついて旅を共に続けました。
アルジェリア人の友人(日産の工場!に勤めていた)の家に泊めてもらった時は、弟達が初めてのカメレオンに大喜びしていたな。アトラス山脈から東に流れ、やがてサハラ砂漠に消えていく川で僕が同行者達にバタフライを披露していた時も逃げもせず、ついに大西洋を一緒に拝んだメクネス。もう死んでしまったんだろうけど、ワシントン条約がなければ日本を見せてやれたよね。
拙い思い出話にお付き合い頂いた皆さん、本当にどうもありがとうございました。
「あの頃」にどう落とし前をつけるか20年も迷っていたのですが、もう後ろ髪を引かれる事はないでしょう。
また、元気があれば「太平洋の小島でのヨットのヒッチハイクの話」とか、「サイババのアシュラムでの修行と予言書の話」とか、「アマゾンのワニの料理法」とかお話しします。