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レーザー治療、睡眠時無呼吸症候群

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宮城県震災ボランティア日記・3

2011/5

ボランティア活動記の完結編です。

宮城に来て4日目の朝が明けた。
7時半まで待って、避難所2か所にお邪魔する。年配者が多いが幼児まで、さまざまな生活時間の違う人たちの300人の雑魚寝生活。これは精神が疲弊するよな。何とか早く仮設住宅を。河北支所の保健課の西条保健師を尋ねる。このタフなお母さんの朝も早い。考えてみりゃ、普通なら連休中だ。震災から50日。その間、何日お休みを取られたのだろうか。

西条さんの計らいで耳鼻科往診に行く事になった。うーん、今日の泥かきは・・・予定変更! 当初1件の予定だった往診が、偶然集落にいた被災聞き取り調査隊の協力で都合4件。風邪2件、難聴2件。62才から83才まで。一人暮らしの老人が3人。横浜の往診でも同じだが、おじいさんの一人暮らしは部屋が片付かない。自分の30年後が心配。
難聴のお年寄りの訛りがきつい。30分間止まらない、まったく難解な言語。近くて遠い東北。

往診終了後、長谷川君のアドバイス通り南三陸に向かう。
志津川、これは大変な場所だった。町(街ではない)が消滅していた。爆心地。茫然として涙も出ない。修復?考えられない。全てを一から創り直さないと。瓦礫の中に並んで埋もれた車椅子とベビーカー。かわいく飾られた嵐のDVDのケース。「打て!」と書かれた野球のヘルメット。心が麻痺して何も感じない。

気仙沼に向かう予定だったが、それ以上の被災地観光は止めて巨大避難所へ行く。悪名高いハコモノ行政がこんなに有効活用される皮肉。イスラエルからの援助物資で大きな仮診療所が出来上がっていた。避難所内の医療救護所に何か支援をさせてもらえないかを聞きに行くが、責任者の先生に軽く断られる。時既に遅し。横浜医師会をもってしてもスポット医療支援はもう不要だそうだ。そりゃそうだ。深く恥じ入る。

石巻のボラセンに戻り、ボランティア相手の炊き出しを手伝う。大阪の大学生や埼玉の高校生のグループの元気さに、やっと心が癒される。同じ気持ちの人達と一緒だと本当にほっとする。
ボラセンでは、たくさんのタフで愉快で真っ直ぐな魂とふれ合った。そして、古き良き友と、新たに苦楽を共にした。非日常の世界では、本当に面白い人々と知り合う。年月と共に柔軟さを失っていた心に、ストレッチを与えてもらった。

今回感じた事は、神と相対する自分の無力さだった。竹槍で戦車に立ち向かっても、無駄だとはわかる。全く相手にされていないのに、超美女に悲しいアタックする若者の心境か。しかし、何か工夫があるはずだ。それは組織力とか、文明の利器とか。
組織は往々にして思惑を生み、軋轢が起こる。人間だもの、あたり前田敦子だ(おいおい)。しかし正面突破はお互い傷つくばかりだし、悲しいよね。それならばいつも笑顔で世の中と関わろう。今回の被災地支援も、明るく優しい1人ひとりがこんなにも集結した奇跡が、明日につながらない訳がないからね。

宮城県に来て、自分の中で何かが変わった。それが何かはまだ説明がつかないけれど。5日間の短い滞在を終え、横浜の自宅に戻りました。災害は悔しいけれど、僕を受け入れてくれた、働かせてくれたすべての人達に感謝です。そして自衛隊、警察の方、感謝と尊敬です。
これからも被災地の人たちへ寄り添う気持ちを持ち続けたい。1回きりでなく、継続的な支援。小さな力でも皆さんと手をつないで、なるべく大きく、長く。
そしてこの国に生まれた意味をゆっくりと考えていきたい。