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2010年医療の旅

2011/1

今年、横浜市緑区医師会は創設40周年を迎えます。

それを祝して、この2月に記念行事が行われます。その際に記念誌を配布するのですが、その編集役員として、私は緑区の3人の先生方と協力して業務に当たってきました。

記念誌の中にいくつかエッセーを載せることになり、なぜか私にそのお鉢が回ってきました。

編集業務に勤しんだ2010年を振り返った文章を書いたのですが、記念誌がやっと完成することになり、その時の文章を皆さんにもご覧いただこうと思います。



2010年。

緑区医師会40周年記念誌の随筆を書いている今現在、2010年11月の世相について考えてみる。

この記念誌は、おめでたい医師会の40年のお祝いに即して作製されている。私は、その記念誌の編集委員の一人として、荒井ゆかり先生、三瓶重人先生、谷田部博嗣先生とともに記念誌作製に携わってきた。

こうした発行物の宿命として、頻回にご覧になる方はあまり多くないだろう。記念配布される2011年2月の記念式典後、見識ある先生方はご自宅や診療所で当然このDVDをご覧になるだろうが、そのまま本棚へと「お蔵入り」になる運命のDVDもあるかもしれない。

それを予測して、緑区医師会50周年の頃にでも、たまたま蔵出しとなったこのDVDをいたずらに見る人のために、2010年の出来事を書きとめようと思う。

2010年。

かつて映画少年だった私とってこの年号は、天才スタンリー・キューブリックの名作「2001年宇宙の旅」の続編である、映画「2010年」の印象が深い。両作とも20世紀の偉大なサイエンス・ドリーマーであった、アーサー・C・クラークの連作が原作だが、「2010年」はピーター・ハイアムスの監督による1984年の作品である(日本公開は85年3月)。ハイアムスはこの映画で、キューブリックとクラークへのリスペクトをスクリーンいっぱいに繰り広げている。

まだサブカルチャーなる言葉もなかったこの時代に、かぶれた若者達が芸術や科学の未来を語る時、「モノリス」はひとつのキーワードだった。25年の時が過ぎ、はるかな未来のはずの2010年を生きる今、私達の生活はどれだけ豊かになったのだろう。

2010年。

2月。カナダ・バンクーバーで冬季オリンピックが行われた。女子フィギアスケートで日本中の期待を背負った浅田真央は、韓国のキムヨナに破れ銀メダルだった。4年前のトリノ・オリンピックで荒川静香が獲得した金メダルからのフィギアスケートブームはピークを迎えた。

4月。アイスランドで火山が大噴火し、ヨーロッパ中の空港が閉鎖、1週間以上ほとんどの飛行機が欠航となった。

5月。上海万博開幕。チャイナパワーが本格化し始めた。

6月。FIFAワールドカップサッカー・南アフリカ大会。第2期岡田監督時代、日本はグループリーグを本田圭祐の活躍で突破した。運命の決勝トーナメント1回戦・対ウルグアイ戦を0-0でPK戦に持ち込んだ日本代表だったが、不幸なアンチヒーローとなった駒野友一のシュートミスで敗れた。優勝はオランダを破った無敵艦隊スペイン。

8月。チリ鉱山落盤事故が起き、33人の鉱夫が生き埋めとなった。2ヵ月後奇跡的に全員救出されるが、世界中が見守る救出劇だった。

9月。尖閣諸島で中国漁船衝突問題が起こる。逮捕された中国人船長を不起訴・釈放した民主党・菅政権の態度は日本中を混乱させ、それを発端とした外交の不手際は日本の衰退の象徴となった。

11月。横浜でAPECが行われた。みなとみらい周辺は厳戒態勢となり、大騒ぎとなった。

その他、AKB48と嵐が売れまくり、サザンの桑田圭祐の食道がんが見つかった年でもあった。

2010年.

21世紀の最初の10年が過ぎる今、緑区医師会は40周年を迎えようとしている。

座談会のテーマでもあった新規開業も確実に増え、緑区も医師会員の数は増加し続けている。ぶれる国策の一つである医療行政による、医学部増員での医師数増が今後の地域医療にもたらす影響は、いまだ評価を知らずという状態である。

新たな法制の下、医師会・メディカルセンターも、ともに公益法人として法人を継続するか、一般法人として新たなスタートを切るか、まさに今、慎重な議論が始まったところだ。

一瞬で現在は過去になり、はるかな未来はあっという間にやってくる。その中で、われらが緑区医師会の永遠の繁栄を願ってやまない2010年である。